眠れぬ夜に魔法をかけて





忘れることは死を意味するという。
ともすれば、意図的に忘れることは、生の記憶に死という名の蓋をすることで、生きた記憶そのものを殺すことにあたるのではなかろうか。
ロベルト・ニコラスは、バチカンの聖徒の座に努める神父だが、日々、俗悪なうわさ話や派閥間の争いであったり、対人関係の厄介ごとを見聞きする場面も多く、そうした心をむしばむ堕落した一面を一も早く忘れるために、嫌な記憶はできるだけ頭に中から追い出す努力を怠らなかった。
例えばそれは、彼にとって好きな料理をすることであったり、友人平賀神父とあってなんでもない団らんのひと時を過ごすことで、そうした一つ一つの小さな忘却が、彼にとっての死の蓋であった。
嫌なことは死の蓋によって忘却の彼方へ閉じ込める。
そして今日も今日で、帰り際にルドルフ神父から嫌なうわさ話を聞かせられた折り、こんなときは、平賀を自宅に招き、二人でゆっくりと夕食をとるのが一番良いと考えた。
その時ロベルトは平賀に、嫌なことがあったときどうするか、という話題を持ち出した。

「嫌なことがあったら、ですか?」
平賀はきょとんとした様子で、ロベルトの顔を窺った。 無垢な瞳が、この世の悪いことなど何も知らないかのように瞬く。
「はあ……私は、眠るとすぐに忘れる方ですので、特にこれといった対策はしていませんね」
「じゃあ君は、死の蓋を使い慣れているんだな」
「死の蓋、とはなんですか?」
「人は二度死ぬというだろう? 一つは死によって、もう一つは忘れられることによって。 だとしたら、忘れる行為は、それそのものが死を意味しているんだと、僕は思う。 生きていたという記憶に忘却の蓋をすること、それがすなわち、死の蓋というわけさ」
平賀はロベルトの言葉を受けて、何かを少し考えこむ様子で中空を見たのち、彼に視線を戻した。
「そうですね…確かにその通りかもしれません。 脳科学的に言えば、眠ることによって脳は記憶を整理し、必要のないものは忘れ、必要のあるものは定着させます。その過程の中で、捨てられた不要な記憶たちが、忘却の蓋によって殺されているのなら、私は毎日たくさん殺していることになりますね」
平賀が平然とそう言ったので、ロベルトは少しぞっとした。
「脳が効率よく働くにはそうするしかありません」
怖いことを言ってくれるな平賀。
それじゃあ君は、死の蓋を使い慣れているってことなのかい?
「じゃあ、平賀は、効率のためだったら僕のことも忘れてしまうのかな」
ロベルトは神妙な面持ちで平賀に問いかけると、彼は困ったように笑い、「それはないと思いますよ」と言った。
「……本当に? 君が、君自信のことについて忘れてしまうことも?」
「ええ……おそらくは」
でも、何か事故や病気などで記憶を失うようなことがなければ、と平賀は付け加えた。
「もし、君が僕のことを忘れてしまったり、君が君のことを忘れてしまったら、それは、僕が知っている平賀が死んだも同然だと僕は思うよ。毎日何かの記憶を忘れていくなかで、もしもそのような記憶を忘れてしまったら……と思うと、ぞっとするね」
「はあ……貴方は不思議なことを考えるのですね。確かに、言われてみればそうかもしれません。でも、人はいつか死ぬんです。遠かれ早かれ、いつか必ず……だから毎日、寝ることによって死ぬ練習をしていると思えばいいのではありませんか?」

平賀のその言葉はロベルトの頭にガンと響いた。
毎日、死ぬ練習を……?
前から思っていたことだけど、どうして君は、さも死神と友達であるかのように、死について考えることができるのだろう。
遠い昔に、亡くした友の記憶が、意識の奥からよみがえってくるような気がした。
ロベルトはにわかに沸き起こった感傷的な気分を振り払うようにして頭を振ってみたが、どうしても平賀の「死ぬ練習」という言葉を頭からぬぐいさることができず、その日はいつも寝ている自室のベッドが、死体安置台のように思えてきた。
それから1週間近く、夢見の悪い日々が続いた。
ベッドの中で眠っていると思っていた平賀がなかなか起きないと思って、触ってみると冷たくかたい彼そっくりの人形に代わっていたり、あるいはそのまま死んでいたりする夢を見た。
そのうちロベルトは軽い不眠症にかかり、ベッドに横たわってもなかなか寝付くことができない日が続いた。
暗い毛布の中で考える……彼もまた、今頃僕と同じように自分の死体安置台に横たわり、静かに目を閉じているのだろう。
そう思うとロベルトはいてもたってもいられなくなり、失礼なことだとわかっていながらも、彼の家に忍び込んでベッドで安らかに眠っている彼の鼓動を確かめようと決心した。
しんと静まり返った夜の街を通り過ぎ、バチカン市国内にある平賀の家の前にたどり着く。
鍵開けが得意なロベルトはいともたやすく彼の部屋のドアの施錠を解いて中へ入った。
もしかしたらまだ起きているかもしれないとおもったが、当初予想していた通り、平賀は人形のようにベッドの上に横たわり、安らかな表情で眠っていた。
外からかすかに差し込んでいた月明りに照らされて青白く映えるその肌からは全く生気が感じられず、まるで死体安置台の上に寝かされた遺体であるような気さえする。
彼のベッドのわきに飾られた最後の審判の絵が目に入り、ロベルトは平賀がこのままあの世に行ってしまうのではないかという不安を感じさせた。
はやる思いを抑えながら、ロベルトは彼が起きないようにそっと掛け布団をはだけさせる。
そうしてあらわになった上半身の上にかがみこみ、まるでおとぎ話の眠り姫を目覚めさせる王子のように、そっと心臓に耳を当てた。
目を閉じる……息を吸う音……かすかに脈打つゆっくりとした鼓動……大丈夫、彼は生きている……。
ロベルトは、ほっと胸をなでおろすと同時に、そう自分に言い聞かせて布団を元通りに直し彼の家を立ち去ろうとしたとき、「誰です?」と呼ぶ声が聞こえ、ぎくりとした。
「……気づかれてしまったかな」
「……ロベルト! こんな夜中にどうかされたのですか?」
「いや、ちょっと……ね」
そこまで言いかけてロベルトは沈黙した。
平賀はベッドから起き上がって部屋の明かりをつけ、ふたたびベッドに戻ってきて、腰をおろした。
ロベルトがその隣にすわる。 平賀は、ロベルトがこんな夜中に訪ねてきたのには何かわけがあると思って、彼の言葉をまっていた。
少しの沈黙の後、ロベルトが静かに口を開いた
「実はその…君のことが心配になって」
ロベルトの言葉に平賀は驚いて
「えっ、何か心配をかけるようなことをしてましたか?」と言った。
「いいや、僕の問題なんだ。 君が先週くらいに、寝るのは死ぬ練習だという話をしていたろう?」
「はい…」
「それでちょっと……深く考えこんでしまってね。僕が見ていない間に君が死んでしまったらと思うと不安で仕方がなくなったんだ」
「それで私の家を訪ねてきたのですか?」
「うん、でもこんなことで君をわざわざ起こしてしまうのも悪いと思って、確かめたらすぐに帰ろうと思っていたんだ」
「ロベルト……」
平賀はバツの悪い顔をして視線を下に落とした。
お互いが気まずい雰囲気だった。もじもじと言葉に迷っていると、平賀の方が先に口を開いた。
「私がなにげなく言った言葉で貴方を不安に貶めてしまったことは謝ります。でも、そんなこと言ったら、ロベルトだって同じじゃないですか。貴方がいつ死ぬかなんてわたしにはわからないんですよ」
ロベルトは平賀からそう言われてはっとした。僕は今まで、自分のことしか考えていなかったんだ。
「そうだ、こうしましょう
胸に手を当ててあなたの心臓が正二十面体だと想像してください」
ロベルトはそう言われていまいちピンとこなかった。
「正二十面体だって……? 何故そう思うんだい?」
ロベルトの問いかけに対して、平賀は無邪気に目を輝かせて答えた。
「それはですね、
正二十面体は、その面の中央に点を取って線で結ぶと正十二面体の形になるんです。また正十二面体は同じように面の中央に点を取って線で結ぶと、正二十面体になります。つまり、この二つの立体は互いに互いの形を内包している双対関係なんです。
なので、私の心臓が正十二面体だとしたら、片方が消えればもう片方も自動的に消えることになる…と思いませんか?」
「うーん、たしかに?その形がなくなれば、内包しているもう片方の形も消えてしまうね」
そこまで言って、ロベルトはざわめきを覚えた。それは、つまり……。
少しの気まずい間があってから平賀は、ロベルトの脚のあたりに視線を落とした。
それから押し出すような細い声で
「だからあなたは孤独じゃありませんよ」
といった。
「平賀…」
ロベルトが何かを言いかけるとそれを遮るように、
「…といっても、これは気休めですね」
と、困ったような笑みを浮かべた。
しかしロベルトは平賀の言葉を聞いて、
彼の家に訪れた時とは打って変わった明るい表情になった。
「やっぱり君はすごいな、平賀。 それを聞いて安心したよ」
「一人でちゃんと眠れそうですか」
「うん、今夜はちゃんと眠れそうだ」
ロベルトは満足したようにほほ笑んだ。
その様子をみて平賀も安堵したように顔を綻ばせた。

午前三時のバチカン市国。昼間は観光客でにぎわっていた広場も、今は落ち着き、遠くざわめきが聞こえるばかりだ。
ロベルトは帰路につき、空が白みだす前の群青色の夜のしじまに思いを巡らせた。
眠りについた瞬間は誰もが孤独で死に近い。
でも君があのように言ってくれたから、
明日も明後日もこれからも、きっと独りにはもうならない。
僕の中に平賀がいる。そして平賀の中には僕がいる。
二つの立体が重なるように、僕たちは溶け合って一つになる…。
そう思うと、一人の夜もきみと僕は繋がっているような気がしたよ。
きみは、
眠れぬ夜に魔法をかけてくれたんだね。
Buona notte…おやすみ、平賀。

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