海の結晶





「僕の家で食事をしていかないかい?」
ロベルトがそう言った時、空は群青色からサンゴ色にだんだんとつながるグラデーションで染まり、夕闇を背に受けて影に表情が隠れた平賀神父が、「よろしいのですか?」と少しの戸惑いと驚きを持って答えた。

ロベルト・ニコラスは日常的に平賀を食事に誘う……それは、特別なことというよりも日常の一部として習慣化していて、彼曰く一人で食べるより、二人で食べた方が美味しいからだそうだ。
平賀の方から食事に誘われることは滅多になかったが、きっと平賀もそう思っているにちがいない。と、ロベルトは密かに思っていた。

「そうだ平賀。 このあいだ、良い岩塩が手に入ったんだ。最高級のヒマラヤ山ピンク岩塩だよ。 今日の料理はそれを活かしたいから、シンプルなメニューにしようと思うんだけど、どうかな?」
「私はロベルトにお任せします。あなたの料理はなんでも美味しいですし」
「そうかい?」
ロベルトは控えめだが嬉しそうに笑み、平賀の方をちらと見てから話題を結んだ。
アパートに着き、ロベルトは料理の下準備を始めた。
平賀がロベルトのうしろでふと口を開いた。
「あの、ロベルト神父」
「なんだい?」
ロベルトは振り返る。平賀は何かいいたげにもじもじとしていたが、やがて静かに
「……いつもありがとうございます」
といった。
「いいよ」とロベルトは軽く流そうとしたが、平賀はあわてて「ですが、」と付け加えた。彼はまっすぐにロベルトを見ていた。
「……勘違いしないで欲しいのですが、私は時々怖くなります。 ロベルト、どうしてあなたはそんなに優しいんですか?」
「なんだそんなことか」
ロベルトの表情はよくうかがえない。平賀は伏し目がちになりながら付け加えた。
「あなたは色々してくれるのに、私は何もしていません」
「君はいるだけで僕に色々と与えてくれるだろう? だから何もしなくていいんだよ。 仕事でも、プライベートでもいろいろと僕に与えてくれる」
ロベルトは柔らかくなだめるようにそう言ったが、その言葉に納得がいかなかったのか、平賀は
「いるだけで? それは一体どのような…」
と食い下がった。
ロベルトはその質問にフフと笑ったが、結局なにも答えてはくれず、さっさと料理の続きに取り掛かってしまった。
煙に巻かれた平賀は一瞬だけ、不服そうに唇を尖らせたが、すぐにいつも通りの穏やかな表情に戻り、「勝手に見ますよ」といって奥の部屋の本棚を漁ることにした。

――なぜ僕が平賀に料理を振る舞うようになったのだろう。
ロベルトはパスタをゆでながら、ふとそんな、日常に溶け込みすぎて考えてみてもいなかったことについて考えを巡らせた。
それは……一言で言ってしまえば、平賀に言えるような理由ではない。
彼を美しいと思うこと。意外とセクシーだと思うこと。少女のように可憐だと思うこと……小柄で華奢で危なっかしい人形……そのどれをも、心で思っていながらも、彼に直接言ったことはなかった。
……言ってはいけないような気がした。
彼はどこまでも清らかで一級品の美術品に相違ない。
そんな美術品を、それらの言葉で表してしまったら……生物としての汚らわしい劣情に従うような言葉で貶めてしまうようで、心の中だけにしまっていた。
それでも思いは膨らんでゆく。
だからいつかは、外に出さなければ、心の器が壊れて僕はどうにかしてしまうのだろう……やはり何らかの形で伝えなくては。 しかしどうやって…?
少し前の僕はそんなことばかり考えていた。

が、やがて、平賀の穢れ無き無垢な瞳や、様々な物事とまっすぐに向きあう姿勢を目の当たりにするうち、僕と彼には、このバチカンという聖なる懐で、恋に患うことなく、老年の夫婦のように静かで穏やかな時間が既に与えられている……ということに気がついた。
限りなく透明で、静かに揺らがぬ結晶のような神の愛…僕らには最初からそうした愛が与えられていたのかもしれない。
だから僕は、アダムとイヴが知恵の実の味を知るまえのような、「楽園の時間」を守ろう、このままの距離を保とう…と思ったのだ。

ロベルトがそこまで考えた時、ちょうどパスタが茹で上がった。
パスタを専用の網で湯切りし、皿に盛りつけていく。
そしてあらかじめ隣のコンロで作っておいた浅利のソースをくわえた。次は野菜のサラダだ。ブロッコリーを下茹でし、湯煎にかけて皮をむいたトマトを角切りにする。そしてにんじんは千切りにした水にさらし、レタスを食べやすい大きさにカットした。
仕上げに、モッツァレラチーズとレモン果汁、そして先日手に入れた岩塩をまぶす。

――岩塩、で思い出した。
そう、この岩塩だ。
サンゴ色の小石のような形をしたヒマラヤでとれたというこのロックソルトは、地殻変動によって海水が陸に閉じ込められ、何億年もの長い年月をかけて徐々に塩分が濃縮したものである――まるで海の結晶だ――ともすれば、胸の内に閉じ込めた平賀への思いは、長い年月をかけたらいつかこの結晶のようになるのかもしれない……。
そう思い至ったロベルトは、おろし金を使い、丁寧に細かく岩塩を砕いた。
――何も難しいことじゃない。料理が美味しくなるように。君と過ごす時間が楽しくなるように。彼を喜ばせるおいしい料理を食べさせることで唇を奪い、体を満たすように、心を込めて料理を作ればいい。
僕が平賀に料理を作る理由はそれだった。

祈りにも似た、静かに燃える青い炎のような思いを込めて白く砕かれた岩塩を一つまみ、サラダに振りかける。

「平賀、テーブルセットを手伝ってくれないか?」
「はい、今すぐ」
本棚の前でしゃがみこんで熱心に本を読み込んでいた平賀は、ぴょこんと立ちあがってダイニングへ入り、手早く皿やカトラリーをテーブルへ並べた。
そこへロベルトが仕上げた浅利のパスタとサラダ盛り付けてゆき、あっというまに美味しい食卓が完成した。
平賀の向かいの席に着いたロベルトが優しく微笑む。
「さあ、召し上がれ、平賀」
平賀もにっこりと笑った。
「では、主の恵みに感謝して」
二人はグラスを交す。
「パーチェ」

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