心のメモリー


時計は午前二時を回ってロベルトがすっかり眠りについたころ、突然自宅のインターホンがなった。
こんな時間に誰だろうと訝しがりながらドアを開けると、そこに立っていたのは平賀……だったのだが、なんとその平賀は半透明に透けていた。
最初は寝ぼけて見間違っているのかと思ったロベルトだったが、軽く頬をつねってみても、やはり平賀の体は半透明に透けていて、向こう側にある道の街灯がうっすらと透けて見えている。
ロベルトはおっかなびっくりしながら、寝静まっている近隣の住人に聞こえないよう、小さめの声で話しかけた。
「……どうしたんだい? こんな夜更けに」
「どうしましょう、ロベルト。元の体に戻れなくなってしまいました」
いったい、どういうことだ……?
「僕は今、何が起こっているのかよくわからないんだけど、君も相当わけがわからなくなっているみたいだね。……とりあえず、外は寒いだろう? 中へ入り給え」
「お邪魔します」
ロベルトは平賀を促した。横を通り過ぎてゆく間、平賀は足音も立てず、夢か幻のような気がした。
リビングの明かりをつけ、平賀をソファに座らせる。やはり、黒いカソックを透かすようにして、向こう側にぼんやりと赤いソファが見えていた。
「さっき君が言ってた話だけど、元に戻れなくなった……というのは、一体全体、どういうことなんだい?」
「はい……。それがここ数日の話なのですが、私は夜目が覚めると、体が宙に浮いていていることがあるんです。振り返ると、ちょうど後ろでもう一人の私がベッドで眠っていて……幽体離脱っていうんでしょうか。別の視点から自分自身を見ていることもありました」
平賀は不安そうに言いながらも、どこか楽し気で、抑えられない好奇心に胸を弾ませているように、瞳の奥には光が宿っていた。
「僕が知っている限りだと、幽体離脱、というのは一説には明晰夢の一種だと聞いたことがあるよ。でも、僕は今起きているわけだし、半透明の君が見えている。ということは、今君の本体は君の家にいるということなんだね……?」
「はい、まさにそうなんです。これは幽体離脱が単なる夢の一種に過ぎないのではなく、本当に起こる現象だということですよね?」
平賀は矢継ぎ早にそう言ったが、ロベルトは少しあきれたように笑って、話題を本筋に戻した。
「で、君は元の体に戻れなくなっていたというけど」
「はい、そうなんです! いつもなら気が付いたときにはすっと元の体に戻っているのですが、今回はどういうふうにしてみてもダメで……それで、あなたに相談しようと思った次第でした。こんな夜中ですみません」
「いいよ。それで、僕にできることといえば……」そこでロベルトは言葉を切り、平賀の答えを促した。
「私の体を元の体に戻してほしいのです。私自身が自力で入ろうとすると、丁度空気が入った風船のようにふわっとはじかれてしまうので、外部から力をくわえればうまく入れ込むことができるのではないかと思いまして」
「つまり、君を物理的に押し込むと」
「はい」
「ふうん。ところで平賀、君は体が透けているようだけど、僕は君に触れることができるのかな」
ロベルトはいたずらに平賀の方へ手をかざした。
すると、胸のあたりでちょうど希薄な物質感―それは、弾力のある空気のような感覚―があり、幻覚ではないような気がした。少なくとも、彼は確かにそこに存在している。それは、神智学の世界で、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーの著作シークレット・ドクトリンに書かれているような魂の体…即ち”エーテル体”なのだろうか。 だとすれば、今の平賀はエーテル体の平賀ということになる。
「僕が君に触れている感覚は、わかるかい?」
「ええ、なんとなくですが、貴方の手が触れているような感覚はわかります。でも具体的な感触も痛みもなくて、私の体はまるで、空気のような何かになってしまったようですね」
ロベルトは冗談めかして
「今の君は、まさに空気のような存在になっているよ」といった。
「僕も君に触れている感覚はなんとなくわかる。でも、そうだな…たとえるなら、弾力のある重い空気に触っているような感じさ」
ロベルトはすばやく手を振り上げた。すると、空を切るように平賀の体をすり抜けてしまった。
今度はゆっくりと右から左へ動かしてみる。すると、ヘリウムで膨らんだ風船を触るように、平賀の胴体が少し傾いた。
「ゆっくりと動作すれば、君の体に触れられるようだ。慎重に行えば、君の体を元の主のところへもどせそうだよ」
「それならさっそく、私の家へ行きましょう。本体が眠っています」
***
平賀の自宅へ向こう道すがら、ロベルトはふと思ったことを尋ねた。
「ところで平賀、君が僕の体にさわった感じはどうなんだい?」
「というのは?」
「僕にとって、君は空気のような存在だけど、僕は実態を持っているだろう?空気の君が実態のある僕に触れたらどんな感触なのか気になってね」
「はあ…どうでしょう。えい」
平賀は、ロベルトの肩をつかむように腕をぶんと振り回した。
すると、ロベルトは平賀の手が通った軌跡にそってひんやりとした何とも言えない這うような感触を覚え、うっと身震いした。
量子が物質の中をすり抜けるように、平賀の腕が僕の体をすり抜ける……その瞬間、二人の距離はゼロになっていて、ぴたりと重なっているのか……。
「うーんと……なんというのでしょう。すり抜けていくのに、不思議と手ごたえがありますね。ここが鎖骨、そして肩甲骨、次に肋骨です。直接あなたの内側へ手を入れて、触っているような気がしますよ…あなたはどうですか?」
平賀は、ロベルトの顔を覗き込むようにして尋ねた。ロベルトは夢想の世界から引き揚げられ、平賀に意識を向ける。
「ひんやりとして気持ちがいい」
「えっ」と平賀は一瞬戸惑い、手を引っ込めようとした。
「大丈夫だよ、平賀。怯えなくていい。 君に触られているのは、なんだか不思議な気分だ。もっといろいろなところに触れても……かまわないよ」
そういってロベルトは平賀の右手をそっととるような動作をした。
「悪いですよ」
「いいんだよ。それにもうじきもとに体に戻ってしまうのだろう?」
「それはそうですけど」
「だったら少しくらい、好奇心に従ってもいいんじゃないかな」
「ロベルト」
平賀は心の中を図星されたのか照れ笑いを含んだ笑顔で名を呼んだ。そして恐る恐る胸のあたりに手を伸ばす。
「さっきは骨の外側にしか触れていなかったろう?」
「そうですね」
「じゃあ、骨の内側は、どうなんだろう」
平賀は慎重に手を滑り込こませた。鎖骨から肩甲骨、そして肋骨を越え、肺に達する。
ひんやりとした平賀の硬く細い指の感触を胸に感じたロベルトは、震えるようにゆっくりと息を吸った。
「貴方の肺が大きく膨れています」
平賀は呼吸に合わせて膨張と収縮を繰り返すロベルトの肺臓をゆっくりと上から下へなでおろした。
「呼吸している肺に触れたのは初めてです。肺ってこんな風に動くのですね。心臓はどうでしょう」
といって平賀は、ロベルトの心臓を持ち上げるようにしてつつむ。
その瞬間、ドクンと脈打つ感覚と一緒に平賀が見たことのない映像が頭の中に映った。 両脇にそびえる本棚と、学校の制服をきた黒髪の少年――あれは、誰だろう?
「平賀?どうしたの?」
ロベルトの問いかけが彼の耳に届いていないのか、平賀はじっと中空を見つめていた。
「ロベルト……」
続けざまに様々な映像が映った。
踊るような黒い影、女性の叫び声、食器の割れる音、男の怒声、それから制服を着た生徒の群れと、木漏れ日の揺らめくベンチ、黒髪の少年、幸せな食卓、金色の栞……どれも、平賀の記憶にはない、見たことのない映像だった。その映像とともに、胸が締め付けられような、悲しいような…愛しいような…すがるような感情が渦を巻くように広がり、心を支配した。
「ロベルト、今、私は……」
顔を見上げた平賀の瞳は赤く腫れ、今にもこぼれ落ちそうに涙をためていた。
人は心がいっぱいになると、それが涙となって溢れるという。
今の平賀は心がいっぱいで、何かをまともに話すことができるような状態ではなかった。
「綺麗な顔が台無しだよ。さあ、涙を拭いて…」
といってロベルトは指で涙を救おうとしたが、指がすり抜けてしまい、うまく拭うことができなかった。
「うまくいかないな」
平賀はそうですねと、いいながら自分の両袖で交互に涙を拭い、そして深呼吸をして心を落ち着けた。
「貴方の心臓に触れた時、私の頭の中に様々な情景が浮かんだんです。私の見たことのない景色が……これはひょっとして、貴方の記憶ではありませんか?」
「どんな情景が見えたんだい?」
平賀は、ロベルトに先ほど見えて情景について説明した。
ロベルトはそれを聞くなり、ゆっくりと頷いた。
「それは…間違いなく、僕の記憶だよ」
そして平賀の瞳を不安げにそっと伺った。彼はというと、いつものように、思考の海を漂っている様相を呈していた。
「だとしたらこれは、移植手術を受けた人がドナーの記憶を見るようなものなのでしょうか。人の記憶…すなわち心は、どこに宿ると思います? これは現代の科学をもってしてもいまだ解明されていないことなのですが、私があなたの心臓に触った瞬間に見えた景色が、あなたの記憶なのだとしたら、少なくとも心臓には、心が宿るということですね」
「心臓に宿る心の記憶、か……」
「心のメモリー、といったところでしょうか」
「ふふ、そうだね」
そうこうしているうちに、二人は平賀の自宅へ到着した。
ベッドにはまるで人形のように生気のない平賀が横たわっている。
ロベルトはこのまま平賀のエーテル体が元の体に戻らなかったら、平賀は死んでしまうのではないか、という不安に駆られた。
「じゃあ、平賀、元の体に戻すよ」
「お願いします」
平賀は平賀の上に座った。ロベルトはその肩をゆっくりと押し倒すようにして平賀の上に寝かしつける。エーテル体の平賀は、寝かせると目を閉じる仕掛けのビスクドールのように、やすらかに目を閉じて、本体と重なった。これで大丈夫……。
すると眠っていた平賀は大きく弾むようにして息を吹き返した。
そしてゆっくりと目を開いた。額にうっすらと汗が浮かんでいる。
少しうつろな瞳で、ロベルトをぼんやりととらえていた。
「ロベルト……」
平賀はロベルトの顔を見るなり、安心したように薄く笑った。
「平賀」
「無事に帰ってこれました」
「もう夜中に抜け出したりしないでくれよ?」
「今後気を付けます」
平賀はそう言って、困ったように笑う。
星灯の空の下、午前三時の秘密の時間。

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