窓辺の薔薇




1.
これは、ある奇跡調査で薔薇の名所であるという村の教会を訪ねたときの話だ。

その窓にはどこかから運ばれてきた零れ種から噴き出した小さな白い薔薇が咲いていた。それをいち早く発見したのは、ロベルトの調査の相棒のである平賀だった。
彼は子供のように無邪気な瞳で「珍しいことですね」と言って笑った。

翌朝、窓のガラス戸をなにかがコンコンと続く音で目が覚めた平賀は、それが鳥の仕業であるのを確認したと同時に、驚いて目を見開いた。窓辺に咲いていた小さな薔薇をヒヨドリがついばんでいたのである。
平賀は急いでガラス戸を開け、鳥を追い払った。
平賀が立てた物音で目を覚ましたロベルトが、ベッドから起き上がり「どうかしたかい?」と尋ねてきた。
「危ないところでした。こんなに厳しい環境で一生懸命に育っているのに、あっけなく食べられてしまうなんて…あの鳥はお腹が空いていたのでしょうね」
ーーまた来るかもしれない。そして今度こそ、あの小さく可憐な薔薇を綺麗に啄ばんでしまうだろう…そんな気がしたひらがは、心のどこかで身勝手だと思いながらも、あの薔薇をどこか安全なところへ植え替えて、奇跡調査の間だけでも自分で育てることにした。

2.
白い薔薇は鉢に植え替えられ、二人のベッドからちょうど等距離にある南向きの窓辺に置かれた。
あの日から平賀は毎日欠かさず白い薔薇に水をやっている。
平賀の愛情を一身に受けて育った薔薇は、陽を受けると光に包まれた天使のように柔らかくぬくもりに満ちた輝きを放った。

日の落ちかけた窓辺でその薔薇を眺めていたロベルトは、
「君は平賀を独り占めにしているみたいでずるいじゃないか」
と呟いた。部屋にはロベルト以外に誰もいない。ロベルトは独り言を続けた。
「僕にも、それを、わけてほしいな…」
気がつくと、ロベルトは薔薇の茎を握りしめていた。
右手のひらに薔薇の野生的な棘が容赦なく突き刺さる。
ロベルトはふと、イエスもこんな痛みに耐えたのだろうかなどという考えが脳裏をよぎった。しかしすぐさま、僕はすべての人に平等に注がれる神の愛とは程遠い、独占的な気持ちでいっぱいだということに気がつく。

こんな姿は平賀には見せられない。
でも、この気持ちは本当なんだ。

それからロベルトは、平賀の見えないところでこの白い薔薇を握りしめるようになった。


3.
月が一番高く昇った頃、ロベルトは一人で居所にいた。月明かりが窓から注ぎ込み、部屋の中を青白く照らしていた。ロベルトは窓際に立ち、じっと薔薇を見つめている。平賀はデータを整理したいと言って、pcが置かれている部屋へ行ったきり、戻っていない。彼のことだ。きっと徹夜か、明け方近くに戻ってくるだろう。

近頃、薔薇がほんのりと赤く染まってきたような気がする。毎日僕の血を飲んでいるからだろうか。
薄桃色に染まった柔らかな花びらは、どことなく、風呂から上がったばかりで上気した平賀の頰を思わせた。
馬鹿な妄想だ。
なぜその薔薇が赤くなっていくのか、本当のところはわからなかった。もしかしたら、僕が毎晩行なっている"秘め事"を暴いて知らせようとしているのかもしれない。
そう思うと、ロベルトはますます薔薇が腹立たしくなった。
今日は今までよりもずっと強く握りしめてやる…無言のうちに自己の存在を主張しようという思いは、ロベルトが自分で想像している以上に激しく狂おしいものだった。

4.
どれくらいそうしていただろう。
平賀に育てられた、健やかな薔薇の棘が深々と手のひらに食い込み、赤くどろりとした雫が茎を伝って土に染み込んでゆく。
ロベルトは歯を食いしばって、薔薇を持っていない方の手でカソックの下着の裾を握りしめた。
じっとりと汗が手のひらに滲んで下着を湿らせる。

もうこれ以上は声が出るといったところで力をほどき、薔薇の茎から手を離した。
痛みの海の底でじっと息を止めていたかのように、水面に顔を出したロベルトは肩で大きく息を吸い、そして吐いた。
手のひらがしびれている。一瞬の空白をはさむと、すぐに棘の刺さった部位がジンジンと痛み出し、やがて脈打つようなひどい激痛に苛まれた。
「…やはり、何度やっても慣れないな。きみとこうするのは、どうしてこんなに痛むのだろうね。
君の花も葉も棘も、みんな平賀に育てられた平賀の一部のようなものじゃないか。それなのに、君は平賀のようには優しくないわけだ…」

5.
その頃、平賀は思ったより早くデータの整理が終わったので休息を取ろうと思い、足早に居所へ歩を進めているところだった。
居所の扉を開ける。部屋の中は暗い。
ロベルトはもう寝ているのだろうか。
平賀はロベルトを起こさないようにそっと自分のベッドへ戻ろうとした。そのとき、月明かりの差し込む窓辺で黒い影が動いたように見えた。
「ロベルト…起きていたのですか?」
平賀は慌てて明かりをつけると、落ち着かない様子で薔薇の鉢のそばに立っているロベルトを確認した。
瞬間、平賀は目ざとくロベルトの手から血がなみなみと出ていることに気がついた。
「ロベルト!手を怪我しているじゃありませんか」
平賀の必死な問いかけに、ロベルトはどこか上の空な様子でこたえた。
「ああ、平賀。こんな遅くまで起きていたのかい? ダメじゃないか。早く寝ないと」
「でも、まずはその怪我を手当てしないと」
「僕は大丈夫だよ」
しかし、ロベルトが何も応急処置をせずにベッドに戻ろうとしたので、平賀は強引にロベルトをベッドに座らせ、自分の机から救急セットを取ってきて手早く傷口を止血した。

6.
傷は棘のようなもので刺したように小さく深い傷だった。それが複数箇所にあり、新しいものから治りかけたもの、化膿しているものまである。ざっと10箇所。平賀はロベルトの手を止血しながら、「何か、棘があるようなものを掴みましたか?」と尋ねた。
ロベルトはぎくりとして肩を硬ばらせた。
平賀はそんな様子には気づかず、真実のみを追求する、純黒の瞳でロベルトを見据える。
もう何も嘘をつけないと思った。

「君の薔薇を、僕のものにしようとした」
平賀はロベルトの言っていることの意味が飲み込めておらず、呆然としている。
「え…。あなたは、私が育てている薔薇が欲しかったのですか?」
ロベルトは静かに首を横に振った。
「違うよ平賀。僕が欲しかったのは」
そこまで言って、ロベルトは平賀に縋るようにしがみついた。ゆっくりと顔が近づき胸に埋もれる。平賀の目からはロベルトの表情がうかがえない。
ロベルトが胸元で呟いた。
「…いや、いい。君は知らなくていい」
平賀は何も言わずにロベルトの頭を抱き寄せ、時計の秒針が刻まれる音を一晩中聞いていた。

7.
あの日以来。ロベルトは平賀の薔薇を握りしめることをやめた。平賀は相変わらず丹念に薔薇の世話を行なっている。ロベルトのなかで薔薇を羨ましく思う気持ちは相変わらずくすぶっていたが、手にきつく巻かれた包帯を見ると、心が静まった。
大人気ないではないか。
薔薇はただの薔薇だ。物言わぬ小さな来訪者に踊らされているなんて……。

教会での奇跡調査は無事に幕を閉じた。結局、奇跡と申請された現象は科学的に裏付けられた必然から起こる出来事だった。軽いため息をつきながら、平賀とロベルトは教会を経つ準備を始めた。

「そういえば、この赤い薔薇…鉢に植え替えたころより少し色が変わっている気がしませんか」
とうとう気づかれたかと思い、ロベルトは慌てて否定した。平賀の見えないところで毎晩していたことを知られたくない。
いや、もう悟られているだろうか。
「そうかな? 僕には変わっているように見えないけど」
「…そう…ですか。そういう種類なのでしょうか」
ロベルトはこの時ほど、平賀がこういうことに鈍感でよかったと安心したことはなかった。
「もう僕たちはここを離れる。その薔薇ともお別れだね」
「少し名残惜しいですが、植物を持って帰ることはできないので、下にあった場所に戻しましょう。さようなら、小さな薔薇さん」
そういって平賀は鉢から薔薇を掘り返し、もとの生えていたところへ植え直した。

教会を出る時、平賀は後ろ髪を引かれるように薔薇が咲いていた窓辺を振り返る。
僕はそんな彼の手を引いてバチカンへの帰路に戻させた。

平賀は歩きながら思いを巡らせていた。

(私にはあなたの考えていることがよくわかりません…あの怪我は確かに棘のようなものによる刺し傷でした。ということは、薔薇を握りしめてできたといってほぼ間違いありません。でも、何故……)

平賀はこの調査以来、しばらくあの出来事が気になりつづけていたが、ついぞロベルトの本心にたどり着くことはできなかった。

「君は知らなくていい」
その言葉が呪いのようにいつまでも平賀の頭の中でこだましていた。

(終)
2018.05.14 YSTK


追記:

SALTさんが窓辺の薔薇イメージでイラストを描いてくださいましたー!!
「僕が欲しかったのは」のシーン。
ロベルトの手の位置がえっちですよ…平賀神父の細腕をぎゅっとしてるところが最高です…見つめあう二人の距離感たるや。
盛大にありがとうございます///家宝です///



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