[Caelum Germinabunt]




優しい彼女は夢を見る。

いや、「彼」というべきか。

いま僕の前には、華奢で色白な青年が、糸の切れた人形のように床に突っ伏して固まっていた。目を閉じていると長い睫毛が下まぶたに影を落とし、柔らかい頰を冷たい床にぺたりとくっつけるようにして眠っている。ロベルトは予てから彼のことを少女の人形のようだと思っていた。しかし彼女は女ではない。ほかならぬ平賀神父だ。
彼は手に白い6枚の花びらをつけた花の枝を持ったままふわりと横たわっている。
彼がなぜこのような状態で床に突っ伏しているのか、事の発端は数分前にさかのぼる。



中世に伝わる魔女の薬草で天国の花、またはヒュプノイド(眠りもどき)と呼ばれる奇妙な植物がある。16世紀のスペインで書かれたとされるカルメル会修道士の手記には、この花について次のように記されている。
この植物は、花の香りないし花の花粉を吸引すると眠るように意識を失ってしまい、目が覚めてからもしばらくは、ここが天国なのか、現実の世界なのかわからなくなる……。
南アメリカに古くから伝わる幻覚剤で主に宗教的な儀式を行う際に用いられた飲み物があるが、花の効果はこれと非常に似ており、もともと魔女たちに利用され、精霊や妖精たちとの交信を図る儀式のために用いられていた歴史があるらしい。
多くの場合は、時間の感覚が飛んでしまい、浦島太郎のような、向こう側の世界から現実世界へ戻ってきたかのような感覚を味わうという。

ロベルトはこの花に興味を持ち、秘密裏にアパートで育ててみることにした。天国の花の入手自体はそう難しくはなかった。山道をしばらく歩けば容易に自生しているものを見つけられる。

自宅のミニガーデンで順調に育て上げ、見事に花を咲かせることができた。

天国の花と数種類の百合やバラなどを組み合わせた花束を作り、平賀の誕生日にプレゼントした。
「誕生日おめでとう」といって渡したら、彼は素直に「ありがとうございます」と言って僕の花を受け取ってくれた。簡単すぎる。
「ですがロベルト神父? この花は、…」
そこまで言うか言わないかの間に、平賀はみるみる意識を吸い取られるかのように、寝ついてしまった。
誰に対しても優しい平賀は、ときどき疑うことを知らないのではないかと不安になるくらい、すぐに人を信じる。
この場合だって、そうだ。
君は優しいから、僕が用意したプレゼントはなんでも喜んで受け取ってくれるし、それがなにがしかの害を及ぼすなど夢にも思っていないのだろう。

1時間ほど経った頃、平賀は目を覚ました。
揺れる意識をゆっくりと覚醒させると、やけに頭がすっきりとしていた。しんと静まり返った周囲と相まって、時間が止まってしまったように感じる。

「目を覚ましたのかい?」

「ロベルト、そこにいたのですか」
驚いて平賀は声のしたほうへ勢い良く振りむいた。
ロベルトは腰掛けていた椅子からゆっくりと立ち上がり、平賀の方へ近づく。

「1時間前からずっといたよ。それにしても、君は具合が悪いんじゃないのか?急に倒れるから驚いたじゃないか」

「……私は、倒れてしまったのですね」

そう言う平賀の前髪を退けて額に手のひらを当てる。熱はないらしい。あの花がこんなに効くとは。

「ロベルト、私はさっきから、感覚がおかしいのです。いつもならあれこれ色々なことが頭の中を駆け巡っているのですが、どういうわけか、何も考えられないんです。…そうですね、まるで、時間が止まってしまったかのような、なんだか恐ろしいことが起こっているような気がするのです」

まるで怯えた小動物のような目をして小刻みに震えている。ロベルトは胸の中にそれを知ってはいけないのと同時に抑えがたく我慢できない熱い波が押し寄せるのを感じた。

ロベルトは衝動に任せてそっと平賀の手を握った。

「大丈夫だよ平賀」

「ロベルト…」

平賀の時間は止まっている。ロベルトの時間は止まっているのだろうか?否、時間が止まった感覚はあの花の香りを吸ったものにしか訪れない。その時になってロベルトは後悔した。平賀だけが、時間の止まった向こう側の宇宙へ行ってしまったのだ。

「これから私はあなたと、ずっとふたりきりなのでしょうか?」

「どうしてそう思うんだい?」

「時間が止まっているのに、あなただけが動いてみえるからです。いえ、正確には貴方と私二人だけが、でしょうか」

「そうだね。……そうかもしれないね」

行きたい。平賀のいる時間の止まった世界へ。

ロベルトは平賀の傍に落ちていた花を拾い上げた。この花の香りが、彼と僕との間に隔たる見えない扉を開ける鍵になるだろうか。

白い花弁を顔に近づけ、僕はそっと目を閉じた。


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